シノプシスの原点
2004年1月完成の『舌〜デッドリー・サイレンス』。右が、役者の芝居で配った仮チラシ。見ての通り(?)ゾンビもの。チラシの文面は小さくて読みにくいので、以下に再現。
夫は36歳、画家。
妻は25歳、出版社に勤める編集者。
夫はアルバイトを続けながら絵を描き、
夫の絵が大好きな妻はその売り込みに腐心する。
お互いを必要とし、お互いを気遣い、支え合った夫婦の物語…。
そしてある夜、夫は妻の死体を捨てに出掛ける。
前作『イリヤ』の映画祭上映&シネマ下北沢でのレイトショー&DVD発売がひと段落し、次作へ移ろうかと動き始めたのが2003年春。目指すジャンルはゾンビもの。なぜゾンビものかというと、2003年には『惑星ソラリス』のリメイクがあり、『黄泉がえり』があり、こりゃあ次の時代はゾンビブームが来るな、という予感から。『ソラリス』がゾンビものかという疑問を抱く人も多いが、「死者が活動を始めたらそれはゾンビ」という広義の意味において。だって、こんなに都合のいい定義づけのジャンルは他にないもの。ジョージ・A・ロメロが発明したゾンビの定義は、
ほらね、よく考えると(よく考えなくても)根拠のある定義なんて一つもないでしょ。だいたい人間の肉を食べた経験なんてほとんどの人がないだろうに、なんでゾンビになったら人間を食おうとするの!? スーパーマーケットを襲えばいいじゃん! それでもロメロ以後のあまたの映画はこのルールに則っている。宇宙からの怪光線こそ最近ではギャグになってしまうが、『バイオハザード』だってもったいつけながら、結局このルール。偉大なり、ロメロ。ゾンビの設定に著作権があったなら、今頃ビル・ゲイツに肩を並べる金持ちになっていただろう。
かたや、もう1種類のゾンビたちがいる。『黄泉がえり』や『惑星ソラリス』など、生者に郷愁をもたらすゾンビたち。
この2つのゾンビ(ロメロ型モンスターゾンビとソラリス型郷愁ゾンビ)の中間を狙おうというのが、今回の映画の意図だった。なぜって、ここにこそ自分のテーマが注ぎ込めるはずだから。さっき言ったゾンビブームの到来を予期しての企画というのは全くのでたらめだが(ゾンビはいつの時代だって流行ってらぁ)、ゾンビものに自分のテーマが注ぎ込めると思ったのは本当。我々は通常、肉体に翻弄されて生きていく。肉体は注意して扱わないと死んでしまうからだ。だから、死なない範囲で金を稼ぎ、恋愛をし、思考を巡らす。でも、そのタガが外されたら……。生と死の境界があやふやになった世界では、おそらく最も純化された意識しか残らないだろう。ちょっと抽象的だが(なにせ経験がないものだから)そんな風に思ったのが、事の発端だった。
でもって、2つのシノプシスを書き、どっちがいいかアンケートを取ってみる。中間を狙うといいつつ、1本のシノプシスはロメロ型ゾンビに近く、もう1本はソラリス型ゾンビに近い形になった。集計の結果は驚くほど圧倒的な差がつく。でも、多数決で面白い映画が撮れるわけもない。アンケートの結果は無視して(じゃあなんでアンケートを取るんだという声もあったが、民主主義とはそういうもの。アメリカの行動原理を見なさい)改めてどっちにしようか考える。選択の結果はアンケートと同じになった。まわりくどいだけだったが、ここからシナリオに取り掛かるのでした。